持ってないひとのピアノレッスン
ピアノを
習っていた。オカンがひいてくれた「きらきら星」に目をキラキラさせて、「ピアノやりたい」と自ら申し出たらしい。齢わずか3歳の頃の話である。覚えているはずがない。
それから3年ほどは、近所の商店街の2階にあるピアノ教室オカダに通っていた。自宅にピアノはあったが、自主練という概念を前世に置き忘れてきたので、ピアノを触るのはオカダのピアノ教室の中だけだった。当然、まったく上達しなかった。
小学校にあがる頃、
オカダが蒸発した。余はどこにも属さぬ、さすらいのレッスン生になった。のは束の間で、すぐにオカンが別の教室を見つけてきた。シラカワ先生だ。
シラカワ先生は、中学校の裏手の閑静な住宅街の中でもひときわ大きな屋敷に夫婦2人で住んでいて、自宅の2階がピアノ教室になっていた。もともとは音楽の教師だったらしい。
はじめてシラカワ先生の教室に行った日のことを今でもよく覚えている。緊張した面持ちで部屋にはいると、そこには重厚なカーペットの上に、2台のグランドピアノがおかれていた。大金持ちだと確信した。座面を高くしてもらった椅子によじ登り、オカダで習っていた楽譜を広げて、ドキドキしながら1曲披露した。無論片手ずつである。すると、シラカワ先生のいる左方向から余の手首の上スレスレにスッと定規が伸びてきた。「この定規に手首があたらないように、もう一度。」先生のメガネの奥の目が怖くて、おしっこちびるかと思った。
それから週に1度、先生の家に通うことになった。両手で弾けるようになると、定規の代わりに、使い古されて丸まった消しゴムが両手の甲にそれぞれ置かれるようになった。「落とさないように弾きなさい。」もっと角ばってて安定感のある消しゴム置いてほしかった。
シラカワ宅での
週に1度のレッスンは30分で、その時間の中で1週間分の自主練の成果を披露し、さらなる上達のためのアドバイスをもらうというスタイルだった。万が一、先週から1ミリも上達していないと判断されると、「やる気のないやつは帰れ!」と鬼の形相の罵声をあびる。今の余なら「あざっした」と言って迷わずサックリ帰るのだが、当時は泣きながら「やらせてください」と食い下がり、スポ根ドラマの主人公をキメていた。とはいえ、毎回鬼と戦えるほど鋼の心をもちあわせてもいないので、レッスン直前の1〜2時間ぐらいだけ自主練して、逆鱗に触れないギリギリのラインを攻める技を磨くようになった。
ときどき、レッスン中にゴルフのお誘いやらセールスやらの電話がかかってきた。先生は必ず電話に出るので、通話が終わるまでレッスンが中断する。それはまるで乾いた砂漠に突如として現れたオアシスだった。通話後の先生は若干後ろめたい気持ちもあってか必ず優しくなるので、レッスン中の電話の呼び出し音はこの世で一番素晴らしい音色に思えた。
そうして
毎週をやりすごしても、1年に1度は必ず最低最悪の日がやってきた。発表会だ。毎年お盆休み前の平日に丸1日市民ホールを貸し切って、教室に通う生徒約40名が参加するそれは、楽屋があり、プロのカメラマンもいる、いわゆる晴れの舞台だ。唯一、余を除いては。演奏曲に憂鬱になっていたのではない。演奏順だ。それすなわち、ランキングだ。順番が後になればなるほど、演奏曲の難易度は上がり、上位者となる。しかし余の演奏順は、きまって最初のほうだった。何を隠そう、5番目より後になったことはない。常に最下位を彷徨っていたわけだ。余の後から教室に通い始めたであろう年下のレッスン生が、前年は余より前に演奏していたのに、翌年には余より後の奏者になるという事象が、ニワトリが卵を産むぐらい頻繁に起こった。この演奏順という名の年に1度のランキング発表は、尊き存在であるはずの余の自信を着実に削り続けた。名前を呼ばれ、舞台の中心まで歩きながら、いつも同じ考えが頭をよぎった。こんなことを続けて一体何になるのだろうか、と。そして演奏を終えると、開放感しかなかった。お腹すいたな、って。
結局、
低空飛行のまま、約15年間、シラカワ先生にお世話になった。演奏できる曲の数が増えても、最後まで「楽しい」という感覚は持てなかった。かわりにピアノレッスンが余に教えてくれたのは、ギリギリを攻めるときの力の抜き方と、人前に立つしかない時の一種の諦めの境地のように思う。前者は社会に出てからも役立っている。後者は、そもそもにんげんと関わることを拒んでいるので、全く役にたっていない。
テレビで、SNSで、タイムラインに流れてくるピアノを心底楽しんで弾いている人を見ると思う。何かが違っていたら、余もそこに辿り着けたのだろうか、と。